花で飾られたガネーシャ像を囲み、太鼓や掛け声とともに街を進み、最後は海や川へと送り出す。
ガネーシャ・チャトゥルティの終わりには、そんな印象的な光景が広がります。
この儀式が、ガネーシャ・ヴィサルジャン(Ganesh Visarjan)です。
初めて見ると、「せっかく大切に祀ってきたガネーシャ像を、なぜ水へ流すのだろう?」と不思議に感じるかもしれません。
けれどヴィサルジャンは、像を処分するためのものではありません。
祭りのあいだ家や街に迎えていたガネーシャへ感謝を捧げ、再び帰っていく神さまを送り出す、大切な別れの儀式です。
その別れは、静かで寂しいだけのものでもありません。
太鼓が鳴り、人々が声を上げ、色鮮やかな花に包まれたガネーシャが水辺へ向かう。
そこには祭りの最後まで続く高揚感と、「また来年も迎えたい」という再会への思いが重なっています。
この記事では、ガネーシャ・ヴィサルジャンとはどんな儀式なのか、2026年の日付、なぜガネーシャ像を水へ送るのか、街を進む行列やムンバイの風景、そして現代の環境への取り組みまで、ひとつずつたどっていきます。
🌊 ガネーシャ・ヴィサルジャンってどんな儀式?
ガネーシャ・ヴィサルジャン(Ganesh Visarjan)は、ガネーシャ・チャトゥルティの期間に迎えたガネーシャ像を、水へ送り出す儀式です。
「ヴィサルジャン(Visarjan)」には、宗教儀礼の中で神像などを送り出す、浸水させるといった意味があります。
祭りの始まりには、家庭や地域のパンダルなどにガネーシャ像を迎え、花や飾りで美しく整え、日々プージャやアールティーを行います。
そして祀ってきた期間の終わりに、そのガネーシャを水辺まで運び、水へと送り出すのがヴィサルジャンです。
🐘 「迎える」だけではなく、「送り出す」までがお祭り
ガネーシャ・チャトゥルティというと、華やかに飾られたガネーシャ像や、モーダカを供える様子などがよく知られています。
けれど、ガネーシャを迎えたところで祭りが終わるわけではありません。
数日間ともに過ごし、祈りを捧げたあとには、迎えたガネーシャをきちんと送り出す時間があります。
そのためヴィサルジャンは、ガネーシャ・チャトゥルティから切り離された別のお祭りというよりも、祭り全体を締めくくる大切な場面として見ると分かりやすいでしょう。
ガネーシャ・チャトゥルティそのものについては、こちらの記事で詳しく紹介しています。
🥁 水辺へ向かう時間も、ヴィサルジャンの一部
ヴィサルジャンでは、ガネーシャ像をただ静かに水辺へ運ぶとは限りません。
特に大きな公共の祭りでは、像を伴う行列が街を進み、太鼓や音楽、踊り、ガネーシャを讃える掛け声が重なります。
家やパンダルで祀られていたガネーシャが街へ出て、人々に見送られながら水辺へ向かっていく。
その道のりまで含めて、祭りの最後の大切な時間になっています。
2026年9月のインドのお祭りの流れについては、こちらのカレンダーでも紹介しています。
では、2026年のガネーシャ・ヴィサルジャンはいつ行われるのでしょうか。
次は日付と、祭りの最終日にあたるアナント・チャトゥルダシーとの関係を見ていきます。
🗓️ ガネーシャ・ヴィサルジャンはいつ?2026年の日付は?
2026年のガネーシャ・チャトゥルティは、9月14日(月)です。
そこからガネーシャを祀る日々が続き、大規模なヴィサルジャンが行われる代表的な最終日が、9月25日(金)のアナント・チャトゥルダシー(Anant Chaturdashi)です。
🌕 アナント・チャトゥルダシーが大きな締めくくりに
アナント・チャトゥルダシーは、ヒンドゥー暦のバードラパダ月にあたる行事で、ガネーシャ・チャトゥルティの期間を締めくくる大きなヴィサルジャンの日として知られています。
特にマハラシュトラ州では、この日に公共のパンダルなどで祀られてきた大きなガネーシャ像も水辺へ向かい、祭りはクライマックスを迎えます。
そのため「ガネーシャ・ヴィサルジャンはいつ?」と聞かれたときには、まずアナント・チャトゥルダシーの日付が紹介されることが多いのです。
🏠 すべてのガネーシャ像が9月25日まで祀られるわけではない
ただし、ここでひとつ覚えておきたいのが、すべての家庭や地域がアナント・チャトゥルダシーまでガネーシャ像を祀るわけではないということです。
ヴィサルジャンを行う時期にはいくつかの形があり、ガネーシャ・チャトゥルティ当日や翌日、その数日後などに像を送り出す家庭もあります。
マハラシュトラ州観光局でも、ガネーシャを祀る期間には1日半、5〜7日ほど、さらにアナント・チャトゥルダシーまで続ける形など、複数の過ごし方が紹介されています。
つまり、9月25日は「すべてのヴィサルジャンが一斉に行われる唯一の日」というより、ガネーシャ・チャトゥルティを締めくくる、もっとも象徴的なヴィサルジャンの日のひとつと考えると分かりやすいでしょう。
🌊 迎える期間が違っても、最後には送り出す
家庭によって祀る日数が違っていても、共通しているのは、迎えたガネーシャを最後にはヴィサルジャンによって送り出すことです。
祭りの始まりに神さまを迎え、しばらくともに過ごし、そして最後に別れの時間を迎える。
この「迎える」と「送り出す」がひと続きになっているところに、ガネーシャ・チャトゥルティの大切なリズムがあります。
では、なぜその別れのときに、ガネーシャ像を水へ浸すのでしょうか。
次は、ヴィサルジャンの中心にある「水へ還す」という行為の意味を見ていきます。
🐘 なぜガネーシャ像を水へ流すの?
ガネーシャ・ヴィサルジャンを初めて見ると、いちばん不思議に感じるのが、大切に祀ってきたガネーシャ像を、なぜ最後に水へ浸すのかということかもしれません。
祭りの期間中、ガネーシャ像は花で飾られ、食べ物を供えられ、毎日のように祈りを捧げられます。
それほど大切に迎えられた像を水へ送り出す行為は、「いらなくなったから処分する」というものではありません。
ヴィサルジャンは、祭りのために迎えたガネーシャへ別れを告げ、送り出すための宗教儀礼です。
🏔️ ガネーシャがカイラーサへ帰っていく
ヴィサルジャンについてよく語られるのが、ガネーシャが祭りの終わりにカイラーサ山へ戻っていくという信仰です。
ヒンドゥー教の神話では、カイラーサはガネーシャの父シヴァと母パールヴァティが住む場所として語られます。
祭りの始まりに人々のもとへ迎えられたガネーシャは、祈りや供物を受けながらしばらくともに過ごし、最後にはヴィサルジャンによって両親のもとへ帰っていく。
そのため、水へ入っていくガネーシャ像は、単に「なくなる」のではなく、神さまを本来の場所へ送り出す姿として受け止められています。
ガネーシャ自身の誕生や、シヴァ、パールヴァティとの物語についてはこちらの記事で詳しく紹介しています。
🪨 粘土の像が、ふたたび水へ還っていく
ガネーシャ・チャトゥルティでは、伝統的に粘土で作られたガネーシャ像が用いられてきました。
その像を水へ浸すと、やがて粘土は崩れ、形を失って水の中へ溶けていきます。
祭りのためにひとつの姿を与えられたガネーシャ像が、最後には再び形を失っていく。
この流れは、ガネーシャが帰っていくという信仰と重なり、ヴィサルジャンを象徴する印象的な光景になっています。
🔄 「終わり」だけではなく、また迎えるための区切り
ヴィサルジャンについては、誕生・生・死という循環と結びつけて説明されることもあります。
ただし、この儀式の意味をひとつの哲学的な説明だけにまとめてしまう必要はありません。
実際の祭りの中で強く感じられるのは、ガネーシャを迎え、ともに過ごし、感謝を込めて送り出し、そして翌年には再び迎えるという繰り返しです。
像の姿はいったん水の中へ消えても、ガネーシャとの関係までそこで終わるわけではありません。
だからこそヴィサルジャンには、祭りが終わる寂しさだけではなく、「また来年」という気持ちも重なっています。
そして、その別れの時間は静かに行われるとは限りません。
街には太鼓が鳴り響き、人々は踊り、声を上げながらガネーシャを水辺まで送り届けます。
次は、ヴィサルジャンを象徴するもうひとつの風景、街を進むにぎやかな行列を見ていきましょう。
🥁 街を進むヴィサルジャンの行列
ガネーシャ・ヴィサルジャンは、水辺で像を浸すその瞬間だけで完結する儀式ではありません。
ガネーシャ像を祀っていた家やパンダルから水辺まで運ぶ行列そのものが、祭りの大切な時間になっています。
花や布で飾られたガネーシャ像が街へ出ると、その周囲には家族や地域の人々が集まり、太鼓や音楽、踊り、ガネーシャを讃える掛け声とともに進んでいきます。
祭りの終わりへ向かっているはずなのに、その風景はとてもにぎやか。
別れの儀式でありながら、最後までガネーシャと過ごす時間を祝うような熱気があります。
🪘 太鼓と踊りに包まれて、水辺へ向かう
特にマハラシュトラ州の祭りでは、力強い太鼓の音が行列の雰囲気をつくります。
ドールやターシャと呼ばれる打楽器の響きに合わせて人々が踊り、ガネーシャ像を囲みながら街を進んでいく姿も見られます。
いつも歩いている道路が、この日だけはガネーシャを送り出すための道になる。
家やパンダルの中で祀られていた神像が、人々とともに街を通り、水辺へ向かっていくことで、ヴィサルジャンは地域全体を巻き込む祭りのクライマックスになっていきます。
🏠 小さな家族の行列から、大規模な公共の祭りまで
ヴィサルジャンの規模は、どれも同じではありません。
家庭で祀った小さなガネーシャ像を家族で送り出すこともあれば、地域の公共パンダルで祀られた大きな像を、大勢の人々が付き添って運ぶこともあります。
そのため、「巨大なガネーシャ像を大群衆が運ぶ」という光景だけがヴィサルジャンではありません。
規模は違っていても、そこに共通しているのは、しばらくともに過ごしたガネーシャを、人の手で最後まで送り届けるということです。
🌊 水辺へ着くまで、祭りはまだ終わらない
行列が進んでいるあいだ、ガネーシャはまだ人々のすぐそばにいます。
だからこそ水辺へ向かう道のりには、これまでの祭りを惜しむ気持ちと、最後まで盛大に送りたいという高揚感が重なります。
そして水辺が近づくにつれ、何度も響くのがガネーシャを讃える掛け声です。
その言葉には、ただ別れを告げるだけではなく、「また来年」という思いも込められています。
次は、ヴィサルジャンを象徴するその掛け声と、ガネーシャを送り出す人々の気持ちを見ていきましょう。
🌺 「さようなら」ではなく、また来年迎えるための別れ
ヴィサルジャンでガネーシャ像が水辺へ近づいていくと、人々のあいだから何度も大きな掛け声が響きます。
その代表的な言葉が、「Ganpati Bappa Morya(ガンパティ・バッパ・モーリヤ)」です。
そしてヴィサルジャンの別れの場面では、さらにこんな言葉が続きます。
「Pudhchya Varshi Lavkar Ya(プドゥチャー・ヴァルシー・ラヴカル・ヤー)」
マラーティー語で、「来年は早く来てね」という意味の言葉です。
つまり、水へ送り出すその瞬間に人々が口にしているのは、永遠の別れの言葉ではありません。
ガネーシャを見送りながら、すでに次に迎える日を待っているのです。
🙏 感謝しながら、ガネーシャを送り出す
祭りの期間、人々はガネーシャを家や地域へ迎え、祈りを捧げ、花や食べ物を供えてともに過ごします。
だからこそ、ヴィサルジャンは単に祭りの日程が終わったから片づける、という時間ではありません。
ともに過ごしたガネーシャへ感謝を捧げ、最後まできちんと見送る。
その別れには寂しさがありながらも、太鼓や踊り、掛け声が絶えることはなく、祭りらしい高揚感も最後まで続いています。
🔄 また来年、同じようにガネーシャを迎える
水へ送られたガネーシャ像は、その年の祭りではもう戻ってきません。
けれど翌年のガネーシャ・チャトゥルティになれば、人々は再び新しいガネーシャ像を迎えます。
迎えて、祈り、ともに過ごし、送り出す。
そして、また次の年に迎える。
ヴィサルジャンは祭りを終わらせるための「最後」ですが、同時に次のガネーシャ・チャトゥルティへつながっていく区切りでもあります。
だからこそ「来年は早く来てね」という言葉が、水辺へ向かう行列の中で何度も響きます。
🌊 にぎやかさと寂しさが、同じ時間にある
ヴィサルジャンの映像や写真を見ると、大勢の人が踊り、太鼓が鳴り響く、とても華やかな祭りに見えます。
けれど、そのにぎやかさの中心にあるのは、しばらく身近に迎えていたガネーシャとの別れです。
名残惜しいからこそ、最後まで盛大に送り出す。
そして別れながら、「また来年」と声をかける。
寂しさと喜び、終わりと再会への期待が同じ時間に重なっていることが、ガネーシャ・ヴィサルジャンを印象深いものにしています。
そんなヴィサルジャンが、ひときわ大きな規模で街の風景になる場所がムンバイです。
次は、数多くのガネーシャ像が街から海へ向かう、ムンバイのヴィサルジャンを見ていきます。
🏙️ ムンバイの海へ向かうガネーシャたち
ガネーシャ・ヴィサルジャンの風景を語るとき、特に大きな存在感を持つ街がムンバイです。
ムンバイのあるマハラシュトラ州では、ガネーシャ・チャトゥルティが盛大に祝われています。
家庭で迎えるガネーシャに加えて、街の各地には地域の人々が集う公共のパンダルが設けられ、さまざまな大きさのガネーシャ像が祀られます。
そしてヴィサルジャンの日が来ると、それまで街の中で人々に迎えられていたガネーシャたちが、今度は海へ向かって動き始めます。
🌊 街から海岸へ続いていくヴィサルジャン
海に面したムンバイでは、海岸がヴィサルジャンの大きな舞台になります。
なかでもよく知られているのが、ギルガオン・チョウパティ(Girgaon Chowpatty)やジュフー(Juhu)などの海岸です。
ヴィサルジャンの日には、街の各地からガネーシャ像を伴った行列が水辺を目指します。
つまり、海岸で行われる浸水だけを見るのではなく、街の中から海まで続く長い道のりそのものが、ムンバイのヴィサルジャンの風景になっているのです。
🐘 大きな公共のガネーシャも、最後には水辺へ
ムンバイでは、地域の公共パンダルに大きなガネーシャ像が祀られることもあります。
祭りの期間中、多くの人がそのガネーシャを訪れ、祈りを捧げます。
けれど、どれほど大きく華やかに飾られた像であっても、祭りの終わりにはヴィサルジャンの時間を迎えます。
大勢の人々に囲まれながら街を進み、最後には水辺へ送り出される。
祭りのあいだ街の中心にあったガネーシャが去っていくからこそ、ヴィサルジャンはムンバイのガネーシャ・チャトゥルティを象徴する大きなクライマックスになります。
🗺️ これは「インド全国で同じ」風景ではない
ただし、ムンバイの大規模なヴィサルジャンを、そのままインド全体のお祭りの姿だと考えるのは少し違います。
ガネーシャ信仰はインドのさまざまな地域に広がっていますが、祭りの規模や祝い方、像を送り出す場所は地域によって異なります。
家庭で小さな像を祀る人もいれば、地域の人々と公共のガネーシャを迎える場所もあります。
その中でもマハラシュトラ州、そしてムンバイは、公共のガネーシャ祭と大規模なヴィサルジャンが街の風景として特に強く表れる場所のひとつです。
たくさんのガネーシャ像が海へ向かっていく光景は華やかで印象的ですが、現代では同時に、水辺の環境について考える必要も生まれています。
次は、信仰を続けながら環境への負担を減らそうとする、現在のヴィサルジャンの取り組みを見ていきます。
🌱 現代のヴィサルジャンと環境への取り組み
ガネーシャ像を水へ送り出すヴィサルジャンは、長く受け継がれてきた大切な宗教儀礼です。
一方で、多くの人々が暮らす現代の都市では、たくさんの神像や祭りの飾りが一度に水辺へ集まることで、環境への影響についても考えられるようになっています。
そこで現在は、ヴィサルジャンそのものをやめるのではなく、信仰を大切にしながら、できるだけ環境への負担を減らす方法が取り入れられています。
💧 海や湖だけではなく、「人工池」でヴィサルジャン
ムンバイで進められている取り組みのひとつが、ヴィサルジャンのためにつくられる人工池です。
ムンバイ市は市内各地に人工池を用意し、自然の海や湖だけではなく、こうした場所でガネーシャ像を送り出すことを市民に呼びかけています。
人工池であっても、ガネーシャを迎え、祈りを捧げ、最後に水へ送り出すというヴィサルジャンの流れそのものは変わりません。
宗教儀礼の形を残しながら、その場所や方法を現代の街に合わせて工夫しているのです。
🎨 神像をつくる素材や塗料にも変化
ヴィサルジャンの環境負荷を考えるうえでは、神像そのものをどのように作るかも大切になります。
ムンバイ市では、粘土であるシャドゥ・マティ(Shadu clay)を使った像づくりを支える取り組みが行われています。
また、2026年のガネーシャ祭に向けては、ガネーシャ像を制作する職人へ環境に配慮した塗料を配布するための準備も進められています。
ヴィサルジャンの最後だけを変えるのではなく、像を作る段階から水辺への影響を考えるという動きです。
🌼 花やお供え物も、そのまま水へ入れない
ヴィサルジャンで水辺へ運ばれるのは、ガネーシャ像だけではありません。
祭りのあいだには花や葉など、さまざまなものがガネーシャへ捧げられます。
ムンバイ市では、ヴィサルジャン会場にこうした供物を回収するための容器を設け、水の中へそのまま入れないよう呼びかけています。
回収された植物性の供物は堆肥化され、市内の公園などで活用される取り組みも行われています。
🙏 伝統を残しながら、送り出し方を考える
環境への取り組みというと、「昔ながらの祭りを変えてしまう」という印象を持つかもしれません。
けれど、人工池を使うことや、像の素材や塗料を見直すことは、ガネーシャを送り出すという信仰そのものをなくすためのものではありません。
大切な儀礼をこれからも続けていくために、現代の環境や都市の暮らしに合わせて方法を考えていく。
現在のヴィサルジャンには、受け継がれてきた信仰と、これからの環境をどう両立させるかという、新しい試みも重なっています。
ガネーシャを迎え、最後には大切に送り出す。
🏡 日本の暮らしでガネーシャ・ヴィサルジャンをどう楽しむ?
日本でガネーシャ・ヴィサルジャンとまったく同じことをしようと思っても、簡単ではありません。
ガネーシャ像を迎え、大勢で水辺まで行列をつくり、最後に海や川へ送り出す。
そもそも、宗教儀礼として行われているヴィサルジャンを、形だけそのまま真似する必要もありません。
けれど、その背景にある文化を知ることで、日本の暮らしの中でもガネーシャのお祭りを少し身近に感じることはできます。
大切なのは、水に流す儀式を再現することではなく、ガネーシャを迎え、感謝して送り出し、また次の年を待つという祭りの流れに目を向けてみること。
🐘 ガネーシャの物語をひとつ知ってみる
まずは、ガネーシャという神さまについて知るところから。
象の頭を持つ姿にはどんな物語があるのか、なぜ多くの人に親しまれているのか。
お祭りの背景を少し知ってからヴィサルジャンの風景を見ると、単に「象の神さまの像を水へ入れる行事」ではなく、人々がどんな思いでガネーシャを送り出しているのかも見えやすくなります。
🥟 モーダカから祭りの食文化に触れてみる
ガネーシャのお祭りを身近に感じるなら、食べ物から入ってみるのもひとつの方法です。
ガネーシャと深く結びついている甘いお菓子が、モーダカ。
ガネーシャ・チャトゥルティの時期にモーダカについて調べたり、作ってみたりすると、祭りの食卓へ少し近づくことができます。
ヴィサルジャンだけを切り取るのではなく、ガネーシャを迎えてから送り出すまでの祭り全体を楽しむきっかけにもなります。
🌿 「送り出す」という時間に少し目を向ける
ヴィサルジャンで印象的なのは、迎えることと同じくらい、送り出すことにも大切な時間が用意されていることです。
日本の暮らしの中で宗教儀礼をそのまま置き換えることはできませんが、季節が変わるときに身の回りを整えたり、役目を終えたものを片づけたりするとき、少し丁寧に区切りをつけてみることはできます。
ただ捨てる、ただ終わらせるのではなく、「ここまでありがとう」と一度立ち止まる。
それはヴィサルジャンそのものではありませんが、迎えたものを大切に送り出すという文化を知ったあとだからこそ生まれる、小さな視点かもしれません。
🌊 現地のヴィサルジャンの風景を見てみる
そして、実際にインドで行われているヴィサルジャンの風景に触れてみるのもおすすめです。
街を進むガネーシャ像、響く太鼓、人々の掛け声、そして水辺で迎える最後の時間。
写真や映像を通して見るだけでも、文章だけでは伝わりにくい祭りの熱気や、送り出す瞬間の空気を感じることができます。
遠く離れた日本からでも、まず知ること、食文化に触れること、現地の風景を見ることから、インドのお祭りを楽しむことはできます。
同じ儀式を再現するのではなく、その土地で大切にされてきた意味を知りながら楽しむこと。
それくらいの距離感が、異なる文化のお祭りを暮らしの中で楽しむにはちょうどいいのかもしれません。
🛍️ ガネーシャの祭りから広がる、インドの色とモチーフ
ガネーシャ・ヴィサルジャンの風景には、象の頭を持つガネーシャの姿、像を彩る花々、そして祝祭らしい鮮やかな色が重なっています。
ここでは宗教儀礼に使うものとしてではなく、ガネーシャのお祭りをきっかけに、インドらしいモチーフや色を暮らしの中で楽しめるアイテムを紹介します。
🐘 象の姿から広がるインドのモチーフ|象
象の頭を持つガネーシャを知ったあとなら、インド雑貨に登場する象のモチーフにも自然と目が向きます。
もちろん、象を描いたものすべてがガネーシャを表しているわけではありません。
それでも、インドの雑貨や装飾の中にさまざまな姿で現れる象を眺めてみると、ひとつのモチーフが暮らしの中でどのように楽しまれているのかを感じられます。
🌺 花に彩られる祭りの風景から|花柄
ガネーシャ・チャトゥルティからヴィサルジャンまで、祭りの風景を華やかに彩っているもののひとつが花です。
ガネーシャ像のまわりに花が添えられ、色の重なりが祝祭の風景をつくっていきます。
そんな花のある景色をそのまま再現しなくても、花柄の布や雑貨なら、インドらしい華やかさを日常に少し取り入れて楽しめます。
❤️ 祝祭の華やかな色を暮らしに|赤系アイテム
ヴィサルジャンの行列やガネーシャ祭の飾りを見ていると、目に飛び込んでくるのが鮮やかな色の重なりです。
なかでも赤は、花や布、装飾などの中で存在感を見せる色のひとつ。
宗教的な意味をそのまま暮らしへ置き換えるのではなく、インドの祝祭で出会う華やかな色彩を楽しむくらいの気軽さで取り入れてみるのもよさそうです。
象、花、そして鮮やかな色。
お祭りそのものを再現しなくても、その風景をきっかけにインドのモチーフや色へ興味を広げていくことはできます。
文化を知ることから始まって、暮らしの中でひとつの柄や色を楽しんでみる。
そんな小さな入り口から、インドという土地が少し身近になっていくのも、雑貨を楽しむおもしろさのひとつです。
🌿 おわりに|水へ送って、また来年を待つ
ガネーシャ・ヴィサルジャンは、ガネーシャ・チャトゥルティの最後に神像を水へ送り出す儀式です。
けれど、その光景を「お祭りが終わったから像を水に流す」とだけ見ると、少し違って見えてきます。
花を飾り、祈りを捧げ、しばらく身近に迎えていたガネーシャに感謝し、最後まで大切に送り届ける。
街には太鼓や掛け声が響き、水辺へ向かう行列には、祭りの高揚感と別れの名残惜しさが一緒に流れています。
そしてガネーシャを送り出す人々が口にするのは、永遠の別れではなく、「また来年」という再会を待つ言葉です。
迎えることと、送り出すこと。
その両方がそろって、ひとつのお祭りが終わります。
ヴィサルジャンのにぎやかな風景の奥にあるのは、神さまとともに過ごした時間への感謝と、次にまた迎えられる日を待つ気持ちなのかもしれません。
水の向こうへガネーシャを見送りながら、もう次の祭りを待ち始める。
そんな別れ方を知ると、ガネーシャ・チャトゥルティというお祭りの景色も、少し違って見えてきます。

















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